古典籍の価値とは
最近、電子書籍のことがよく話題になります。しかし、本とは何かということが正しく理解されて進んでいるかどうか疑問です。
よくグーテンベルクが活字印刷を「発明した」ことを引き合いに出して、ヨーロッパでそれまでの写本の時代から、印刷物によるメディアの発展がなされた、その時以来の変化が今おこりつつあるのだと説明します。近い将来、紙に印刷された書物にかわって電子機器で読まれるようになってしまう。それが電子書籍化の流れなのだと、ほとんどの人が思い込んでいます。
しかし、和本・唐本を扱う我々からしたら、この例えが誤りだということは「常識」です。アジアではグーテンベルクと関係なしに書籍は進展してきました。グーテンベルクより数百年も早い宋代には木版印刷が盛んになり、メディアとして確立しました。韓国でもヨーロッパよりずっと早くに活字印刷が行われていました。日本でも平安時代には経典の印刷が始まっています。
江戸時代に入って木版による精緻な印刷を発展させ、独自に「進化」を続けて、豊饒な書物文化を形成してきました。それなのに単純に明治以降の洋紙・洋装で活版印刷されたものが「グーテンベルク的書籍」で、そこで日本の出版メディアができあがったのだと思い込んでいる人が多いのには驚かされます。自国の文化のことを何も知らないで電子化だ、電子化だと騒いでいるのは困ったものです。
電子化の本当の意義は、単に紙に印刷された書物を電子媒体化するのでなく、ネットワークの特性による多様性を生かした知識の複合化にあります。それは過去を否定するものでなく、新たな組み立てなのです。何をどのように組み立てるかはまだこれからですが、むしろ、そこに和本から学ぶことが非常に多いのです。
日本人が永いこと書物に傾けてきた情熱は、その伝存に注がれていました。単に本の機能を「読む」ことだけに限定せずに、本のつくり、読み方など様々な関連する属性を内包して伝えてきたのです。書き入れなどはそのよい例です。三百年前の本には、三百年間の過程がついてまわります。私たち古本屋は、本に値段をつけるという作業をしてきました。自ずとその本の存在意義を考えてきたのですが、それは内容の善し悪しだけでなく、この伝存過程にこそ価値があると判断してきました。
つまり、日本における本というのは、複合化されたさまざまな知識を同時に伝えており、ただ本文が読めればそれでよいというものではありません。しかも、それはオリジナルからしか見えません。和本から出るオーラは、複製はもとより、電子媒体からはまったく失われてしまいます。古典籍展観大入札会は、その実物とはこういうものだということをじかに見せる催しでもあるのです。
電子化の流れはとまりません。ただ否定するのでなく、その中で、しっかりとした書物観を養い、オリジナルの魅力を伝えていくことが求められます。和本はこれからも、ますます貴重な存在となるでしょう。それを守る私たちの仕事は重要です。
誠心堂書店 橋口侯之介