東京古典会会員コラム:井上書店 井上昭直


本阿弥光悦の系図に関する些かの疑問

 若いころ本阿弥光悦に興味を持ち、少し調べたことがあった。多少文章を綴ったりもしたが、しかしやがて調べは行き詰まり、目的さえも失い、ついに断念した過去がある。
 その調べの過程でひとつ、どうしても腑に落ちない一事があった。その時点で提示していれば、とっくに納得のゆく解答が得られていたかもしれないが、私のなかで未だに解決していないので、遅ればせながらここに提示して識者の卓見を俟ちたいと思う。

 どの文献を見ても、光悦の父光二について「初光心(※光悦の祖父)男子無之、多賀豊後守高忠二男片岡次太夫ノ男(※次郎左衛門のち光二)ヲ婿養子トシ、長女(※妙秀)ニ配シ家名ヲ相続セシム、後実子光刹出生ニ付、自ラ退身別家ヲ立、大永二年壬午生慶長八年十二月二十七日歿、年八十二」とする「本阿弥系図」の伝承をなんらの疑いも無く引用している。[(※)は筆者注]
 この説をごく素直に具体的に解せば、娘妙秀が一定の年齢に差し掛かったころ、まだ家に男子が無かったので、好適な相手を婿に迎えた、ということだろう。妙秀が十八歳のころだとすれば、光二は七歳年長なので二十五歳ころということになる。そしてその後に光刹が生れているのだから、光二は光刹より少なくともそれ以上年長のはずである。ところが実際は、光二は大永二年(1522年)の生れで、光刹はなんと永正十三年(1516年)の生れなのである。光刹のほうが六歳も年上。奇っ怪千万! そんなわけはない。なぜ今まで誰ひとり疑問を呈さなかったのだろう。この謎に解はあるのだろうか。この説に別の解釈が成り立つのだろうか。私がなにか根本的な勘違いをしているのか。
 ご教示を希う。

井上書店 井上昭直